巻頭言

「待遇コミュニケーション」の研究と教育:蒲谷 宏

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はじめに

「待遇コミュニケーション」とは何か、その研究や教育、教育研究とは何か、および「待遇コミュニケーション」という術語に関する問題点について、今後それらの考えがさらに広がり、深まることを期待しつつ、現時点での筆者の考えを述べておくことにします。

1.待遇コミュニケーション

「待遇コミュニケーション」というのは、従来の「敬語」「敬語表現」「敬意表現」「待遇表現」「待遇行動」「ポライトネス」等々の概念を含み、さらに「待遇理解」、そして「コミュニケーション」という観点を包括的に捉えようとするものです。したがって、研究対象の範囲は、例えば、「語」のレベルの「敬語」から、相手を貶めるような「コミュニケーション行動」まで、非常に幅広いものとなります。その意味では、「これが待遇コミュニケーションだ」というような規定ではなく、「これも待遇コミュニケーションだ」と捉えられるような規定の方向を探るほうがよいと考えています。

しかし、「待遇コミュニケーション」という捉え方の鍵となる重要な観点があることは、言うまでもありません。

一つ目は、「待遇コミュニケーション」は「主体」の「行為」として成立する、ということです。まずは、「個」の「行為」として成立する「待遇コミュニケーション」が、そして、その上で「待遇コミュニケーション」における共通性や普遍性というものが、重要なものとなります。ここでの「主体」には、従来の「表現主体」「理解主体」を統合した「コミュニケーション主体」というものを考えておく必要があります。「コミュニケーション主体」は、「表現行為」においては「表現主体」となり、「理解行為」においては「理解主体」となって、「コミュニケーション」を展開させていくことになるわけです。

二つ目は、「待遇コミュニケーション」における「コミュニケーション主体」が、「人間関係」や「場」―それらを総合して「場面」と呼ぶと、「場面」というものをどう認識しているのか、その認識に基づいてどのような「コミュニケーション」が展開し、成立するのか、ということです。「主体」と「場面」、これが「待遇コミュニケーション」において最も重要な観点になります。

もちろん、「人間関係」や「場」の認識は、個別的なものであって、極めて相対的、動態的なものです。「上下親疎」や「改まり‐くだけ」といった認識だけではなく、抽象的に言えば、常に動く「主体」の時間的・空間的な位置に対する認識が問題となるのであり、「個」の時間的、文脈的、状況的、心理的な位置付けとして捉えられるものです。そうした意味での「場面」というものを捉え、考えていくことが重要な点になります。

三つ目は、「待遇コミュニケーション」は、基本的に「表現行為」「理解行為」の「やりとり」と「くりかえし」によって展開、成立することを考えると、常に、「文章・談話」の単位―これを総称して「文話」と呼んでいますが、「文話」で捉えていく必要があるということです。「文話」単位で考えようとするのは、「語」や「文」の単位では考えにくい、「語」や「文」の単位では見えてこない「待遇コミュニケーション」というものの本質を明らかにしていこうとするためです。

四つ目は、「コミュニケーション主体」の「意図」を重視するということです。基本的には、「主体」は、何らかの「意図」を持ち、その意図することを叶えるためにコミュニケーションをするのだと考えられます。「意図」自体は、見えないものです。そのため、「意図」の重要性は理解されつつも、非常に扱いにくいものであったと言えるでしょう。「待遇コミュニケーション」における「意図」をどう明らかにしていくのかは、大きな課題となります。

これらのほかにも、「コミュニケーション」の「題材」や「内容」、「言材」、「媒材化」など「待遇コミュニケーション」を考えるための重要な観点がありますが、まずは、上の4つの点を挙げておきたいと思います。

要するに、「待遇コミュニケーション」の基本的な規定としては、ある「意図」を持った「コミュニケーション主体」が、ある「場面」において、「文話」単位で行う、「表現」「理解」の「行為」、ということになります。

「待遇コミュニケーション」の研究は、こうした「コミュニケーション行為」の全体を対象とするものだけではなく、例えば「敬語」や「相手を貶めるしぐさ」など、その部分的、要素的なものを対象とした研究を含みますが、それらも、ある「場面」における「コミュニケーション主体」の「行為」としての「待遇コミュニケーション」全体にどう関わっているのか、どう位置づけられるのか、という点が明確になっていることが必要だろうと思います。

2.待遇コミュニケーション教育

「待遇コミュニケーション」の教育/学習を考えていく際にも、上に述べた点は、極めて重要な観点になります。

「待遇コミュニケーション」は「主体の行為」として成り立つものである以上、その教育/学習においても、「コミュニケーション主体」となる個々の学習者の「行為」として考え、扱っていく必要があります。基本的には、「コミュニケーション主体」である学習者自身の、「意図」を持った「表現行為」「理解行為」の「やりとり」「くりかえし」においてのみ成り立つ、といった捉え方が前提になります。

「主体」となる個々の学習者は、自らの母語による「待遇コミュニケーション」をどう捉えるのか、外国語あるいは第二言語等による「待遇コミュニケーション」をどう捉えるのか、その上で、実際にどのような「待遇コミュニケーション」を行っていくのか、という極めて能動的で動態的な能力を身に付け、高めていくことになるわけです。

教師は、学習者がそうした「待遇コミュニケーション」の能力を身につけ、高めていくためにどうすればよいのか、何ができるのかを考え、実践し、そして、そうした考えや実践を捉え直していくという行為が必要になります。基本的には、「待遇コミュニケーション教育」の実践と研究は、そのようにして進められていくことになります。

「待遇コミュニケーション教育」に関する研究も、こうした学習者の「コミュニケーション行為」の全体を対象とするものだけではなく、その部分的、要素的なものを対象とした研究を含みますが、それらも、学習者の「行為」としての「待遇コミュニケーション」全体にどう関わっているのか、どう位置づけられるのか、という点が明確になっていることが必要だろうと思います。

3.待遇コミュニケーション」という術語をめぐる問題

3.1.待遇

「待遇コミュニケーション」における「待遇」という術語は、もちろん「待遇表現」から来ています。「待遇表現」という術語は、狭い意味での「敬語」だけに限定された研究を乗り越えるために、「上下親疎」の「人間関係」すべてを含み、「場面」を重視し、表現の形式だけではなく表現する行為をも扱おうとしたという点で、言語研究史における意義を持つものです。「待遇表現」という術語は、そうした背景を有するものとして、現在の日本語研究、日本語教育研究において明確な地位を得ていると言えるでしょう。

しかし、「待遇表現」=「敬語(表現)」という誤解もまだ根強いものがあり、「待遇表現」が持つ広がりが必ずしも理解されず、かえって矮小化されているようにも感じられます。また、「待遇表現」という術語では、どうしてもその覆う範囲が「表現」に限定されてしまうおそれがあります。

「待遇」という術語の持つ意義を重視し、また研究史上の継続性を維持することも意図し、しかし、「表現」だけではなく、「理解」をもその範囲に含むことを明確にするために、そして、表現と理解が単独で成り立つものではなくその「やりとり」や「くりかえし」である「コミュニケーション」として成立するという当然の言語事実を考慮し、さらには、言語を超えた行動も含むことを意識したものとして、「待遇コミュニケーション」という術語を提唱するに至ったわけです。

3.2.「待遇コミュニケーション」と「コミュニケーション」

「待遇コミュニケーション」は「コミュニケーション」そのものなのではないか、「待遇コミュニケーション」はすべて「コミュニケーション」なのだからあえて「待遇」を冠する必要はないのではないかという考え方もあります。逆に、すべての「コミュニケーション」は多かれ少なかれ「待遇コミュニケーション」の特色である「人間関係」や「場」に対する認識があるという点を重視すれば、「コミュニケーション」はすべて「待遇コミュニケーション」であるということもできるでしょう。「待遇」という術語を否定的にあるいは肯定的に捉えても、いずれにしても、「待遇コミュニケーション」=「コミュニケーション」であるということになります。

しかし、具体的な研究課題で考えてみると、例えば、話す速度と内容の理解度との相関関係の研究であるとか、ニュース番組で流された誤報が何日後にどの程度の広がりを見せるかなどといった研究は、「コミュニケーション」の研究であるとは言えますが、それだけでは、「待遇コミュニケーション」の研究であるとは言いにくいように思います。その意味では必ずしも「コミュニケーション研究」=「待遇コミュニケーション研究」とは言えないことになります。ただし、そうした研究も、それが「人間関係」や「場」の認識との関わりで捉えられることによって、「待遇コミュニケーション」の研究になるわけです。したがって、「コミュニケーション」を「待遇」の観点で捉えるかどうかが、「待遇コミュニケーション」の研究となるかどうかの重要な鍵になるのだと言えるでしょう。

「待遇コミュニケーション教育」についても、それはすなわち「コミュニケーション教育」なのだということはできますが、特に「表現内容」を重視した「コミュニケーション教育」もあり、「相手」への配慮や「場」に対する認識を重視した「コミュニケーション教育」すなわち「待遇コミュニケーション教育」もある、ということです。

このように、「待遇コミュニケーション」というのは、「コミュニケーション」において「待遇」という観点を重視するということであるため、「待遇コミュニケーション」は「コミュニケーション」なのだから「待遇」などと取り立てて言う必要がないとも、「コミュニケーション」はすべて「待遇コミュニケーション」なのだからすべてを「待遇コミュニケーション」と呼ぶべきだとも決め付けられないわけです。

3.3.「待遇コミュニケーション」と「対人コミュニケーション」

「待遇コミュニケーション」は、「対人コミュニケーション」と呼べばよい、という考え方もあります。「待遇」という術語は、ややわかりにくいものであることと同時に、「待遇がよい/悪い」などといった他の用法から生じる誤解などを考慮すると、「対人」に焦点を絞るほうがよいという考え方です。

ただし、「対人」という術語の難点は、「待遇」に含められる「場」に対する認識が、名称としては完全に抜け落ちてしまうことでしょう。また、「対人」というと、「人間関係」が「相手」だけに限定されてしまうような印象を与えることも問題になりそうです。

「待遇コミュニケーション」は、当然「相手」を含みつつ、「話題の人物」に関する「人間関係」やさらに「場」の認識も包括するわけですから、そうした点で、「対人コミュニケーション」よりも広い範囲が扱えると考えられます。

3.4.「待遇コミュニケーション」と「ポライトネス」

「待遇コミュニケーション」は、実は「ポライトネス」のことなのではないか、という考え方もあるでしょう。しかし、用語の点からだけ見ると、「ポライトネス」の持つ、「丁寧さ」という用語との誤解が生じやすいという点が問題になるでしょう。もちろん、「ポライトネス」研究においては、「丁寧さ」だけが問題になるわけではないことは明らかなのですが、「ポライトネス」=「丁寧さ」という図式、そうした誤解が生じてしまうことは、用語の点からは逃れられないように思います。また、「ポライトネス」では、軽卑表現や、だれかを貶める表現までは扱えないという点もあります。

しかし、「ポライトネス」研究における普遍性への志向は大切なものであり、例えば、日本語における「待遇コミュニケーション」の特殊性と、多くの言語に見られる「待遇コミュニケーション」の共通性・普遍性との関連を追究していくことも、重要な研究課題であると考えています。

おわりに

「待遇コミュニケーション」の研究や教育に関しては、まずは、いろいろと試行錯誤を繰り返していくことが大切だと考えています。こういうことも「待遇コミュニケーション」として捉えることができるのか、こういう広がりがあるのか、こういう深まりがあるのか、という方向で進んでいくことを重視したいと思います。研究対象の限定や研究方法の厳密さも、過度には求めないようにするつもりです。近接する研究領域、関係する研究領域についても、排除し合う必要はまったくないでしょう。

「待遇コミュニケーション」の実態を明らかにすると同時に、「待遇コミュニケーション」のあり方を考え、もちろん現実には実に様々な「待遇コミュニケーション」があることを前提とした上で、できるかぎり人と人とがよりよい関係になりうる、よりよい「待遇コミュニケーション」とは何かを明らかにし、それが言語生活にも生かされるように、また教育実践面においても反映されるような、そうした方向で進めていければよいと考えています。

参考文献

(かばや ひろし/大学院日本語教育研究科教授)

『待遇コミュニケーション研究』創刊号より)